印刷つれづれ:第11回 江戸から明治へ
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活版印刷が再び
江戸時代は木版が主流でしたが、1856(安政3)年、長崎奉行所内活字判摺立所がオランダから輸入した印刷機でオランダ語の辞書を印刷。また、インドネシアで発行されていた新聞を翻訳し印刷した「パタヒヤ新聞」(文久2(1862)年)は日本語による最初の新聞として知られています。
社会の変化を伝えた印刷物
その後明治維新によって大きく変わった日本の社会や政治、産業の様子を伝えたのは図版印刷です。木版や石版によって帝国議会や大日本帝国憲法の発布が知らされました。太陰暦から太陽暦に変わってからは、太陽暦導入の心構えを説いた書や旧暦と新暦を左右に配したカレンダーなどが発行されました。
月の満ち欠けの繰返しで成り立つ「太陰暦」では、太陽の運行と合わせるために「閏月」(うるうづき)という「月」を挿入し、1年を13か月にすることによって暦と季節のずれを正す方法が取られていましたが、明治6(1873)年1月1日からは太陽暦となり、地球が太陽の周りを回る周期を基にして暦が作られるようになりました。人々の暮らしも混乱したことと思います。そのために、解説本が出版されたそうです。
明治時代となり、「欧米の先進国に肩を並べる強国となるためには立憲政治の実現が不可欠」となりました。一刻も早く日本独自の憲法を完成させようとヨーロッパに視察に行き、明治22(1889年)2月11日に大日本帝国憲法が発布されます。日本はアジアで憲法と議会を有する初めての国となりました。憲法の内容を国民に知らせるために、さまざまな印刷物が発行されます。印刷物がなければ、「国」としてまとまることもできなかったのです。
必要に迫られた「活版(活字印刷)」
明治期の情報伝達には、1枚の版を作るのに時間がかかる木版画よりも活字による活版印刷が必要でした。明治5(1872)年の学制発布による教育の開始、明治6(1873)年に始まった徴兵制による軍隊教育で必要な教科書を作るために印刷技術の向上が求められたのです。