第9回「自分」というフィルターがある
- #編集
「自分」というフィルターとは
企画の意図を決めて、取材して、たくさん勉強したら、記事を書くことになるのですが、このとき「どういう立場で書くのか」が大事になります。たとえば国の政策に関わることだったら、「国の立場で国民を啓蒙する立場」で書くのか、「国民の立場で国の政策に意見するのか」で全く記事の書き方が変わります。編集部としてどういう立場に立つのかという基本方針は媒体のコンセプトとして決まっていますが、文章の書き方は「自分」というフィルターを通すことになります。
以前、働く女性の姿を取材したときに「この企業は、子どもを持つ女性が子どもが病気のとき仕事を休むことを『許している』」という記述が検討されたことがありました。「許す」という言葉が適切なのか、子どもが病気のときに休めることは「権利」ではないかというのが論点です。会社の立場に立てば「許す」になるし、働く女性の立場になれば「権利」になるのです。何気なく書いた記事の言葉が書いた記者の、自覚していない「立場」というものが言葉の選び方に出るのですね。ですから、記事を書くときは、自分の中の「古いもの」や「偏見」を自問自答することになります。
挿絵(写真)を選ぶときにも、個性が出ます。整理部(記事を整理して割付を行う部署)記者が、私の文章に暴力的な写真を付けたとき差し替えを要求したことがあります。記事ではもちろん大変な状況も記述されていますが、最後は希望の持てる内容だったからです。パッと見たとき「悲惨な内容なのか」「希望の持てる内容なのか」の印象を持つわけですから、「これはふさわしくないと思う」と変えてもらいました。その整理部記者は普段から物事をマイナスにとらえがちで、挿絵の選択も往々にして彼の性格を反映したものになるのです。その方の生き方や姿勢を否定するつもりはないのですが、公になるものについてはきちんと意見を言っていかなければなりませんでした。
「自分は自分」でいく
また、くすっと笑えるエピソードを入れられる人、今ホットな話題から入る人など、先輩方にはその人のキャラを生かした記事を書く方がいらっしゃって、私が新米の頃はそういう先輩方に憧れたものです。結局「自分」というのは変えられないので、私は結局正統派というか、真面目で硬い文章しか書けないのですが…。若い頃は「文章術」の本などを必死に読んで、どうやったら人の心に残る記事が書けるか試行錯誤したものです。人も自分も否定することはないと思いますが、「どういうタイプなのか」を把握することは大事だと思います。
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