上毛印刷株式会社

印刷つれづれ:第12回 7名の若者が挑戦した「活字」

印刷つれづれ:第12回 7名の若者が挑戦した「活字」

2025年11月06日
印刷つれづれ
  • #印刷

江戸から明治へと変わり、再び活字が注目され始めました。活版印刷は、明治時代の初めから日本の社会に急速に浸透し、新聞、雑誌、書物の分野で力を発揮しました。明治の初期に活字を作ることに挑戦した7名の若者を紹介します。

本木昌造(もとき しょうぞう)(文政7〜明治8(1824〜1875)年)

本木昌造

日本における近代印刷は本木昌造で始まったと言われています。オランダ語の通司(通訳)をしていた本木昌造は、咸臨丸(かんりんまる:幕府海軍が保有していた軍艦)に乗ってやってきたオランダの活版印刷技師がオランダ語での印刷を行うと、その素晴らしさに感銘し、カタカナの鉛活字をつくることに成功しました。そして1856(安政3)年に長崎奉行所が活字判摺立所を開設したとき、本木昌造は取扱掛に任命されて、実際に、和蘭書や蘭和辞典の印刷刊行に取り組みます。

島霞谷(しま かこく)(文政10〜明治3(1827〜1870)年)

島霞谷

鉛鋳造活字を作る
通常は金属を使用する活字を霞谷はつげと柳の木を用いて作りました。柳材を母型とし、これに活字合金を流しこんで活字を鋳造したのです。この島活字は東京大学医学部の前身である大学東校の教科書に数多く使用され、明治の近代的な医学教育に大きな貢献を果たしました。

大鳥圭介(おおとり けいすけ)(天保4〜明治44(1833〜1911)年)

大鳥圭介

海軍の教科書を作る
初めて漢字と仮名の鋳造活字による組版で本が出されたのは、安政6(1860)年大鳥圭介によるものです。軍隊で必要な教科書を大量印刷しました。日本で初めての金属活字は「大鳥活字」と呼ばれています。

平野富二(ひらの とみじ)(弘化3〜明治25(1846〜1892)年)

平野富二

築地体を生み出す
1872年(明治5)年、東京神田和泉町に活版製造所を開設し、活字販売と共に活版印刷機の国産化を果たしました。1873(明治6)年7月、東京築地に移転。翌年、鉄工部を設けて活版印刷機の本格的製造を開始。平野活版製造所または築地活版製造所と呼ばれていました。ここで生み出された「築地体」は、今でもよく使われています。富二の事業は、政府機関や新聞などの印刷物が増大したことで、大きな利益を得ました。

佐久間貞一(さくま ていいち)(天保8〜明治31(1837〜1898)年)

佐久間貞一

秀英体を生み出す
旧幕臣。江戸の生まれで明治前期の進歩的実業家です。大日本印刷の前身である活版印刷業秀英舎を創設。1889(明治22)年、秀英舎印刷工組合を組織し、8時間労働制や年金制を実施しました。秀英体を生み出します。

神崎正誼(かんざき まさよし)(天保8〜明治24(1837〜1891)年)

神崎正誼

薩摩出身の明治時代の実業家で、1874(明治7)年築地に活字製造業弘道軒を創設し、楷書体活字の製作に着手しました。約10年をかけて開発し、1882(明治15)年日本で最初に1号から5号までの清朝体活字各5000字の字母を完成させ、弘道軒書体を生み出します。現在のイワタの「弘道軒清朝体」はこの書体を参考に作られた書体です。

福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)(天保6〜明治34(1835〜1901)年)

福沢諭吉

「学問のすゝめ」を活字で印刷し普及しました。これは鋳造活字でも木活字でもなく金属製彫刻活字による組版でした。340万冊普及したと言われています。多くの偽物が出回ったことに対抗して著作者の権利確立を主張し、日本に著作権保護の考え方を定着させることに貢献しています。

参考:印刷博物館など

二代目カープ女子

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長年編集に携わってきました。紙、Web、媒体は何であれ、コンテンツをどのように料理するか考えるのが好きです。 カープ大好きおばさん。球場で応援するのが、最大のストレス解消方法!

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