池袋ってどんな街?(1)
- #池袋
鳴り響く太鼓の音
10月16日(日)、17日(月)、18日(火)、雑司が谷にある鬼子母神様の境内で太鼓の音が鳴り響きました。池袋の山手線内側の地域で年に1度盛大に盛り上がるお祭り「お会式(おえしき)」です。もとは日蓮様の法要ですが、すっかり地元のお祭りとなっていて、たくさんの講が万灯や纏(まとい)、太鼓の行列を繰り出します。お会式は、全国各地で開催されていて、一番大きいのは大田区の池上本門寺のお会式です。雑司が谷のお会式は池上本門寺のよりは小さな規模ですが、地元の中学校はその前に中間試験を終わらせることになっているほど、地域に密着したお祭りとなっています。2020年、2021年はコロナ禍により中止となりましたが、2022年は小規模開催されました。
鬼子母神と万灯
弊社は豊島区南池袋にありますので、毎年この太鼓の音を聞いています。池袋駅から徒歩10分ほどの住宅街。ここで62年前に設立し現在に至っています。
皆さんは「池袋」と聞くとどんなイメージを持たれますか? 10何年か前に「池袋ウエストゲートパーク」というドラマが流行り、抗争を続ける若者たちの姿に、「池袋は怖い」というイメージを持たれた方もいらっしゃると思います(最近もサンシャインビルのレストランでチャイニーズドラゴンが乱闘を繰り広げましたし…)。
「池袋は田舎」
実は、私も池袋(正確にはその隣の雑司が谷も含む)に30年以上住んでいます。また、以前豊島区の情報誌の編集に携わったこともあり、自転車で区内をくまなく走り回った経験から、一言。「池袋は田舎」。明治、大正時代、昭和のはじめまではな〜んにもない畑の広がる地域だったのです。
豊島区内で初めて鉄道の駅ができたのが目白駅。1885年(明治18年)のことです。品川から北に延びる日本鉄道が、清戸道(きよとみち)と呼ばれる、郊外から東京市内に野菜を運ぶ道と交差する場所に駅を作りました。
たまたまできた池袋駅
当時まだ山手線は丸くつながっていなくて、上野からは田端まで線路が引かれていました。そこから目白駅につなげようとすると巣鴨監獄(1895年〈明治28年〉建設)を迂回するのが大変だったのと、目白駅周辺は高低差が激しく線路を引いたり車庫を作ったりするのが難しかったのとで、少し北につなげたところが池袋駅(1903年〈明治36年〉設置)でした。そのとき、大塚駅も生まれていますが、当時は大塚駅周辺の方がにぎやかだったそうです。
その後、1914年(大正3年)には東武鉄道(今の東武東上線)が、1915年(大正4年)には武蔵野鉄道(今の西武池袋線)が池袋駅につながり、それらの鉄道は、郊外から市中に野菜を運び、市中からは肥料(いわゆる肥)を郊外に運ぶ役割を果たしました。
戦後発展した街
ですから、池袋駅ができた当時は、周囲に何もなかったのです。戦後、焼け出された人たちがバラックを作り、闇市もにぎわって、次第ににぎやかになっていきました。3路線が交差している点も良かったのでしょうね。その後地下鉄も通りましたし。
なので、池袋で年配の方に取材をすると「生まれは港区芝なのに嫁いだ先が池袋で、こんな田舎に都落ちしたと毎日泣いていたのよ」と言われたり、また、西池袋では「昭和のはじめはね、畑しかなくて、大八車に日用品を積んで売りに来る商売人が遠くからでも見えたものだよ」と話される方もおり、「少し前まで田舎だったんだな〜」と実感したのでした。
今年は、1932(昭和7)年に豊島区が誕生して90周年を迎えます。これから少しずつ、池袋周辺を紹介していきたいと思います。