須賀敦子さんの恩師―雑司ヶ谷霊園掃苔録(2)
- #池袋
須賀敦子さんの著書に「雑司ヶ谷霊園」が
私は、須賀敦子さんがエッセイ「ミラノ 霧の風景」(1991年)を出版されたときからのファンで、全集も発刊と同時に購入。かれこれ30年以上、彼女の言葉に幾度も慰められ、励まされてきました。「言葉に酔う」とはこのことか、と思ったこともしばしばです。今年は没後25年。今でも多くのファンが彼女を語り継いでいます。
須賀敦子さんは1929(昭和4)年生まれ。カトリック系の学校に通い聖心女子大学で学ばれた後、イタリアに渡って、イタリア人と結婚します。その方は若くして亡くなられたので、須賀敦子さんは日本に戻って大学に勤める中、エッセイを執筆されていました。
初の書籍「ミラノ 霧の風景」では女流文学賞を受賞されます。1993年に「ヴェネツィアの宿」が刊行されて読んだとき、私が住む町の「雑司ヶ谷霊園」の文字が現れてとても驚きました。
三月も終りに近いある日の午後、私は東京にながく住んでいるイタリアの友人と雑司ヶ谷の墓地を歩いていた。
(中略)ふと、こんもりとした常緑樹の茂みが目にとまった。なんだろう、と興味をおぼえて正面にまわると、小さな鉄門のついた墓所だった。外国人のお墓だな、と思いながら、門についた紋章を見て、はっとした。それは、まぎれもなく、私が六歳のときから十六年間、なんだかんだと不平を言いながら勉強したあの学校の紋章だったからである。日本に来て、ふたたび故国に帰ることなく生涯を終えた修道女たちの墓所にちがいなかった。(中略)
きいっと心をえぐるような音をたてる小さな鉄門をあけて私は中に入った。正面に、他よりは大きな十字架が一基あり、その前に二列に向きあって、それぞれの側に五、六基、より低い十字架がならんでいて、そのひとつひとつに、葬られた修道女の名と生年月日、そして亡くなった年と月日と、それぞれの故国の名がきざまれていた。(後略)<須賀敦子「ヴェネツィアの宿」『寄宿学校』より>
憧れの人、須賀敦子さん
須賀敦子さんがシスターたちの思い出を語られた「寄宿学校」というエッセイの中に、雑司ヶ谷霊園は登場します。私はすぐに霊園に出向き、その墓所を探しました。中央の通りに面した門扉のある墓所でした。
エッセイには、よくシスターたちの話が出ます。英語の「R」と「L」の発音に厳しいシスター。野球に興じるシスター。厳しい修道生活を選んだ友人の話も出ます。須賀敦子さんが戦前戦後16年学ばれた学校の先生方が雑司ヶ谷霊園に眠っていらっしゃるんだとわかると、急に身近な存在になられたようでした。
須賀敦子さんのデビューは61歳。69歳で亡くなられるまでの短い時間、文壇(?)を駆け抜けられたのでした。編集に携わる私にとっては、「このような言葉が紡げたらどんなに素晴らしいだろう」と永遠に憧れる人です。
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